証券会社も強力なセールスポイントになっている

証券会社も今はとても増えています。証券会社ごとの利点や、共通する点もありますから、あなたが一番利用しやすいところを選ぶのも賢い円卓ではないでしょうか。

たとえば三月の末と九月の末に帳簿をしめる会社が六月一日に増資をして新株を発行したとすると、新株の株主は九月末までに六月、七月、八月、九月と四ヵ月しかその株式を持っていなかったわけです。
ところが旧株の方の株主は、四月一日から九月三十日までまるまる六ヵ月持っています。
お金の利息と同じように、六ヵ月間出資してくれた旧株主の方が四ヵ月間の出資の新株主よりも配当を多くもらうのは当然のことでしょう。
つまり新株主は旧株主の三分の二しか配当がもらえません。
しかし九月三十日を過ぎると、次の三月末の帳簿をしめるときには、旧株主も新株主も同じように六ヵ月間持つことになりますから配当金は同じで、旧株、新株の区別がなくなります。
五千株とか一万株とか一定の数以上の株式を持っている株主に特別の優遇をする会社の株を、俗にこう呼んでいるのです。
たとえば鉄道会社や航空会社が一定区間のパスや大幅割引券を大株主にタダで与えたり、レジャー会社が入場券を毎月何枚か送ってきたり、デパートが買い物の際の割引券をくれたりするのがこれです。
これらの会社は、もともと自分の持っている設備や、作った製品を利用するのですから大きなマイナスになるわけではなく、むしろこれによって、この会社の株式に魅力を感じてくれた方が大きなプラスだと考えてやっているわけです。
株式市場の歴史は各国さまざまですが、市場設立の初期に問題起きがちです。
ヒトまねで作ってみたものの、国内経済が未成執ため開店休業のようになったり、不祥事件が発生したり、現在の展上国によくみられるケースです。
しかしその国の経済社会が成長するに従い、そうしたギクシャクしたものが減ります。
証券市場は株式や公債、社債などを売買するところですから、それらが世の中にたくさん出てこないかぎり成立しません。
ところが日本では明治になってから近代的国家を作り始めたのですから、明治十一年(一八七八年)に早くも証券市場が誕生したことは、異常な速さだと言えるかもしれません。
明治六年の第一国立銀行の出現以来、しだいに株式会社の数が多くなる一方、政府の発行する公債がかなりの数になってきました。
徳川幕府を倒したものの新政府は何事も新しく始めなければならず、といって日本国内には資本が多くはなく、近代的な金融市場もありませんでしたから、仕方なく外国で公債を発行してお金を集めました。
これが日本の公債の最初のもので、その後、武士を平民にするときの代償として発行した秩禄公債、金禄公債(往などがぞくぞく現れて、明治九年までに外国債三百四十万ポンドを除いた公債発行額の合計は二億二千二百九十三万円に上りました。
こうなると、この公債を売る場所もほしくなり、株式会社を育てる意味もあって、政府は株式取引所をつくることにしました。
まず明治七年十月十三日に「株式取引条例」というものを出したのですが、とにかくロンドン株式取引所の規則や習慣を、ほとんどそのまままねたようなものだっただけに、日本の実情に適さず、結局この条例は不発弾に終わったのです。
その後、政府もいろいろ研究し、日本の古くからの商業上の習慣も取り入れた結果、明治十一年五月四日「株式取引所条例」という新しい法律を出しました。
そこで株式取引所をつくろうという機運が高まり、東京では第一国立銀行の総監役(頭取)であるS・E氏をはじめ、S氏、M氏、K氏などの大金持ちや経済知識の豊富な人、の努力によって取引所の設立を進め、東京株式取引所は明治十一年六月一日に、大阪株式取引所は同年八月十五日にそれぞれ仕事を始めたのです。
両取引所とも株式会社組織で、資本金は二十万円二株百円、二千株)でした。
明治十一年には株式会社がしだいに生まれてきたとはいうものの、やはり数からいえば公債に比べて株式の数は非常に少なく、しかも株式というものがよくわからなかった時代でしたので、同年六月に取引所が営業を始めてから、その年の末までの七ヵ月の商いをみると、東京では公債二千六百五十六万五千四百円に対して株式はわずか二百五十三株にすぎませんでした。
このころの上場株(取引所で売買する株)は東京株式取引所をはじめ第一国立銀行、兜町米商会所、蝋殻町米商会所などでしたが、いずれも額面百円ですから、株式の商いを金に換算すると五万円前後、つまり公債の五百分の一程度にすぎませんでした。
大阪ではもっとひどく、株式はまだ取引されていず、公債七百三十六万九千三百円だけでした。
このように公債の方が余計に取引される傾向は明治十八年ごろまで続いたのですが、その前におもしろいことがありました。
それは取引所開設の翌年(十二年)に金貨と銀貨が取引所で売買されたのです。
このころは兌換券(正貨と引き換えることのできる紙幣)がなく、不換紙幣が盛んに発行されたため金貨、銀貨と紙幣との間に値うちの差が出てきました。
ここに金貨・銀貨が思惑の材料になった理由があるのです。
明治十九年に兌換制度が確立して禁止されるまでに、四千三百九十万円余りも売買されました。
さてこの明治十九年という年ですが、この年は株式取引所にとって一つの大きな転換の年でした。
兌換制度の確立とともに財界は安定し、株式会社は発達し、したがって株式の数が増し、一方では金・銀貨の売買が禁止されたため、ついに株式取引所は文字通り株式の売買を主とするようになったのです。
その後、日清、日露の両戦争に日本が勝ってからは、日本の経済は発展、膨張する一方で、それにつれて株式取引所も躍進しました。
東京株式取引所の商いを例にとってみますと、明治十一年から十八年までの八年間の年間平均商いは二万六千二百株余で、最高の十七年でも十万株強にすぎませんでしたが、日清戦争が終わった明治二十八年には二百八十一万株と三十倍近くの商いになり、日露戦争後の三十九年には一千四百万株余りもできました。
つまり最初の八年間の七百倍にも商いがふえたわけです。
これは、当時米相場が暴騰していたこともありますが、とにかく株式取引所よりも米の取引所の方がずっと古く、だいたい株式取引所の組織や売買の方法そのものまで米の取引所をまねたものが多いのです。
株式取引所も大正にはいると株式の商いが9、公債の商いが1、つまりほとんど株式だけの商いとなっています。
大正から昭和へかけて株式市場はぐんぐん商いがふえていきました。
売買株数の増加ぶりだけをみていけば、日本の株式市場万、歳というところです。
しかしそう喜んでばかりいられない事情が戦前の株式市場にあったのです。
それは清算取引の存在です。
清算取引とは、現実の株式を売ったり買ったりすることはせず、買った値段と売った値段との差額だけを問題にする、非常に投機的な売買方法なのです。
たとえばA株を「二百円で買った」と言い、あとで「三百円で売った」と言えば、株の受け渡しをすることなく、差額の百円分だけがこの人の手元に入るという仕組みです。
実際にはもちろんもっと複雑な仕組みですが、なんといっても手軽な方法ですし、投機心をそそるものなので、これが大流行したわけです。
明治時代には、江戸時代から続いてきた米穀の取引方法をまねた「長期清算取引」が中心でしたが、大正時代に入って「短期清算取引」というものが採用され、投機色が一段と強まったのです。
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